対人関係の悩みを改善したい人なら知っておきたい"課題の分離"という考え方
どうも、nimoです。
あなたは、
「あの人にどう思われているかな……」
と不安になることってありませんか?
僕はよくなります(笑)
その悩みに対処するために、"課題の分離"という考え方をたまに使っています。
(といきなり言われても、よくわかりませんよね(笑)
今日は、
その"課題の分離"という考え方を知ると、
人生や対人関係の悩みの解決の糸口がつかめたり、改善するかも?
ということを書いていきたいと思います。
人間関係、対人関係に悩む人の参考になれば幸いです。
目次
課題の分離とは?
課題の分離の概要
この"課題の分離"というのは、アドラーという心理学者が提唱している考え方です。
ざっくりいうと、「自分の課題と他者の課題を切り分けて考えましょう」というもの。
2013年のベストセラー「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健 著/ダイヤモンド社)では、以下のように書かれている場面があります(この本では哲人と青年との対話で構成されています)。
哲人:われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
青年:分離してどうするのです?
哲人:他者の課題には踏み込まない。それだけです。
青年:……それだけですか?
哲人:おそよあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと―あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること―によって引き起こされます。課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。
(中略)
哲人:誰の課題か見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。
―引用元:「嫌われる勇気」(P.140-141)
「そんなこと言われても、簡単にできるもんなの?」って思いますよね?(笑)
この課題の分離という考え方自体は、僕は部分的には使える要素があると思っています。ですが、それをあなたがどう受け取るかは僕の問題でなく、あなたの問題ということになります。
自分の課題と他者の課題の線引き
正直、自分の課題と他者の課題の線引きって、とても難しいと僕は思っています。
「私は、あなたがこうしたらいいと思う。けど、それをどう思うかはあなたが決めればいい。」
「あなたの言い分も一理ある。けど、私はこう思うから、自分が思うようにやる。」
世の中、そう単純にはいかないものです(笑)
ついつい、おせっかいで他者の課題、相手の課題につっこみがちなところが自分にもあります。
これって、相手の課題かな?自分の課題なのかな?
色々考えていくと、わからなくなります(笑)
ですが、これを考える価値はあると思うし、たまにでもいいので向き合うことで、考え方が少しは整理されるのでは?と思っています。
もう少しわかりやすく考えるために、次からは幾つか例を出して、具体的に考えていきたいと思います。
具体例から考える「どこまでが自分の課題?どこからが相手の課題?」
まずは、親と子どもの問題について、その次に冒頭で述べた「あの人にどう思われているかな……」という悩みについて、それぞれ課題の分離という観点から考えてみたいと思います。
親と子どもの問題
「嫌われる勇気」の著書の中では、勉強しない子どもとその親を例に挙げて、課題の分離について説明しています。
「勉強する」という課題は、誰の課題でしょう?
「そりゃ子どもの課題だろ!」って人もいれば、
「親は保護者としてしっかりと子どもを教育する責任がある」という意見の人もいるでしょう。
「嫌われる勇気」でどう書かれているか見てみましょう。
(少し長いので、読むのが面倒な人は飛ばしてください(笑)その下に、この引用部分で言いたかったであろうことを自分なりにまとめてみました。)
哲人:子どもが勉強するかしないのか。あるいは、友達と遊びに行くのか行かないのか。本来これは「子どもの課題」であって、親の課題ではありません。
青年:子どもがやるべきこと、ということですか?
哲人:端的に言えば、そうです。子どもの代わりに親が勉強しても意味がありませんよね?
青年:まぁそれはそうです。
哲人:勉強することは子どもの課題です。そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。これでは衝突を避けることはできないでしょう。
(中略:1つ前の引用部分がこの部分に来ます。)
青年:ううむ、よくわかりませんね。そもそも、どうやって「これは誰の課題なのか?」を見分けるのです?実際の話、わたしの目から見れば、子どもに勉強をさせることは親の責任だとも思えますが。だって、好きこのんで勉強する子どもなんてほとんどいないのですし、なんといっても親、保護者なのですから。
哲人:誰の課題か見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。
もしもこどもが「勉強をしない」という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末―たとえば授業についていけなくなる、希望の学校に入れなくなるなど―を最終的に引き受けなければならないのは、親ではありません。間違いなく子どもです。すなわち、勉強とは、子どもの課題なのです。
青年:いやいやまったく違います!そんな事態にならないためにも、人生の先輩であり、保護者である親には「勉強しなさい」と諭す責任があるのでしょう。これは子どものためを思ってのことであり、土足で踏む込む行為ではありません。「勉強すること」は子どもの課題かもしれませんが、「子どもに勉強させること」は親の課題です。
哲人:たしかに世の親たちは、頻繁に「あなたのためを思って」という言葉を使います。しかし、親たちは明らかに自分の目的―それは世間体や見栄かもしれませんし、支配欲かもしれません―を満たすために動いています。つまり、「あなたのため」ではなく「わたしのため」であり、その欺瞞を察知するからこそ、子どもは反発するのです。
青年:じゃあ、子どもがまったく勉強していなかったとしても、それは子どもの課題なのだから放置しろ、と?
哲人:ここは注意が必要です。アドラー心理学は、放任主義を推奨するものではありません。放任とは、子どもがなにをしているのかを知った上で、見守ること。勉強についていえば、それが本人の課題であるということを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助する用意があることを伝えておく。けれども、子どもの課題に土足で踏みこむことはしない。頼まれもしないのに、あれこれ口に出してはいけないのです。
うん、難しいですね(笑)
自分なりに上記の引用を解釈してまとめると、次のような感じですかね~。
「勉強する」というのは子どもの課題であり、親の課題ではない。親が「勉強をしなさい」と土足で踏み入っていいものではなく、親は子どもに対して勉強が本人の課題であること、子どもが望むなら手伝う意思があることを伝える。つまり、子どもを見守り信じて、子どもが望むなら手助けするのは親の課題ではあるが、その親の信頼や期待に応えるかは子どもの課題であり、親がとやかく言うことではない。
うん、やっぱり難しい(笑)
言うことは簡単ですが、いざ子育てをやるとなると、そう単純にはいかなさそうです^^;
とりあえずこの例で、何となくでも課題の分離のイメージをもって貰えたらと思います。
「あの人にどう思われているかな……」という悩み
続いて、冒頭に述べた「あの人にどう思われているかな……」ということについて、課題の分離の観点から少し考えてみたいと思います。
といっても、やや抽象的なので、少し具体的なシチュエーションを加えてみます。
自分の過去の記事をもとに少しやってみます(笑)
そのように前を向いて地道に努力を続けているのですが、
体調が悪くなったりすると、自分に自信がないという自分の悪い側面が強くなり、
「働いてないのに、自分の好きなことして遊んでるのっていいのかな?」
なんて考えてたりしてしまったり、
「他の人に『何であいつ仕事してないの?』って思われてるんじゃないか?」
と、他人の目が気になってしまったり、
そのような不安に襲われるときが時々あったりします。
まぁ、実際少なからずそう思っている人はいるだろうとは思いますし、
「勝手にそう思っておけば?自分は地道に努力してるし、いつか見返してやる!」
くらいの気持ちで最近はいますかね(笑)
(といっても、調子が悪いときはやはり気になる←気にしなきゃいいのにね(笑))
この場合、どこまでが自分の課題であり、どこからが他人の課題なのでしょうか?
(自分でもまだ答えを模索している段階ですが……(笑)
「他の人に『何であいつ仕事してないの?』って思われてるんじゃないか?」
この部分に関しては、どう思うかは自分の課題ではなく、他人の課題ですよね。
自分ではコントロールできないですし、気にしてもしょうがないわけです。
一方で、働くために地道に努力するということは自分の課題でしょう。
また、どの程度遊ぶか(何にどれくらい時間などを使うか)も、自分の課題。
その自分の課題に、親やカウンセラー、仲の良い人も手助けや援助などはしてくれますが、結局最終的にどうするかは自分次第であり、基本的には自分の課題であるとは思います。
ですが、基本的には自分の課題は自分で考えるということは大事にしつつも、
・そこを共通の課題にしてくれる仲間を見つける
・どうすれば自分の課題を活かし周りに貢献できるか
ってのも大事なことなのではないか?と最近は考えるようになりました。
共通の課題って、アドラー心理学でいうと「それって他者が自分の課題に踏み込んでるってことにならない?」と思ったりしますが、数学のベン図で考えてみると、自分と相手で共通する課題って部分も存在しえると僕は思うんですよね。
(アドラー心理学の共同体感覚ってのにも関係してきそうな話ですが、勉強不足……)
"課題の分離"ができると何が良いの?
最後に、課題の分離ができると何が良いの?ってことについて。
対人関係の悩みが改善する
1つは、はじめにも言ったように、対人関係の悩みが少しは改善するのではないか?と思います。
「あの人にどう思われているかな……」
これは相手の課題なのに、そこまで自分が抱え込んでいたと気づければ、少しは楽になる場合もあるかもしれません。
より他者貢献を意識するようになる
もう1つは、先程自分の過去記事の例でも挙げたことに、ヒントがあるのではないかと思っています。
課題の分離をせずに、「あの人にどう思われているかな……」ということばかりを気にして、他者の問題をどうにかしようと躍起になると、自分の課題も疎かになる。
一方で、課題の分離を行い自分の課題に向き合いしっかり考えると、一見自己中心的に見えるが、より他者に対する貢献も意識できるようになっていると思いませんか?
課題の分離を上手くできると、より他者貢献も意識できるようになるのではないか?と僕は考えています。
ということで、今日は"課題の分離"という考え方について、僕なりに色々と考えてみました。
おまけコーナー
おまけコーナーって何?→こちらの記事で触れています。
最近気になった記事・ツイート
自分のためだけに生きた方が良い。どこかで「周りを幸せにしないと自分も幸せになれない」と気づくタイミングが来る。周りを巻き込んで幸せになりたいと感じるようになる。それを経験してない人の言う「誰かのため」は恩着せがましいし、気持ち悪い。結局自己中に生きることが最高の社会貢献となる。
— やぎぺー (@yagijimpei) 2017年7月2日
これって、今日のブログの最後で言った、課題の分離をしっかりとし、自分の課題に向き合っていると、他者貢献を意識するようになるってことを言いたいんじゃないのかな~なんて思いました。
こちらは、「嫌われる勇気」の著者の岸見一郎先生とサイボウズの青野社長の対談。
今日の内容に関わる"課題の分離"の具体例も第4回くらいに示されててよかったですね。
(全4回程に記事がわかれています。)
過去に撮影した1枚
そういえば、来週東京に行くんですよね~。
何かしら良い写真撮りたい(笑)
この1枚は、以前東京に行ったときに、東京スカイツリーが川に映るのを撮影した写真です。いわゆる逆さツリーってやつかな?(笑)
"十間橋 スカイツリー"とかで調べると、場所出てきます^^
編集後記
正直、アドラー心理学はかじったくらいなので、そこまで理解できているかと言わればちと怪しいですが、今の現時点での自分の理解している範囲で、できる限りまとめてみました。なので、ここに書いてあることが全て正解だとは自分でも思っていません。
あと、最初のアイキャッチ。自分の写真以外ではじめて作ってみました^^
ちなみに、今日で50記事です。意外とブログ続いてます。
ではでは~。